クリックで今日のランキングが見れます
戦後初のミリオンヒットとなった故村田英雄さんの「王将」や北島三郎の「風雪ながれ旅」など5000曲以上を手がけてきた作曲家の船村徹(ふなむら・とおる、本名福田博郎=ひろお)さんが、16日に神奈川県藤沢市の病院で死去したことが17日、分かった。84歳。栃木県出身。
葬儀・告別式は22日、東京・文京区の護国寺桂昌殿で行う。喪主は長男の作曲家蔦将包(つた・まさかね)さん。
昨年、56年の山田耕筰さん以来、作曲家として2人目の文化勲章を受章したばかり。その時に「日本語の歌詞の素晴らしさを脇で助けることを意識して作曲をしてきた」と60年を超える作曲家人生を振り返り、「非常に不器用な男ですが、今まで通り大衆芸能のお手伝いをしたい。その仕事に尽きる」などと、作曲への衰えぬ意欲を語っていた。
昨年5月に心臓の手術を行い、昨秋から自宅療養をしていた。食欲もあり、好きなアルコールもたしなむなど順調に回復していたが、容体が急変したという。
葬儀・告別式は22日、東京・文京区の護国寺桂昌殿で行う。喪主は長男の作曲家蔦将包(つた・まさかね)さん。
昨年、56年の山田耕筰さん以来、作曲家として2人目の文化勲章を受章したばかり。その時に「日本語の歌詞の素晴らしさを脇で助けることを意識して作曲をしてきた」と60年を超える作曲家人生を振り返り、「非常に不器用な男ですが、今まで通り大衆芸能のお手伝いをしたい。その仕事に尽きる」などと、作曲への衰えぬ意欲を語っていた。
昨年5月に心臓の手術を行い、昨秋から自宅療養をしていた。食欲もあり、好きなアルコールもたしなむなど順調に回復していたが、容体が急変したという。
■歌手の舟木一夫さんの話
船村先生の訃報(ふほう)に接して、今はさびしいとか、悲しいなどという言葉では言い表せない気持ちです。
19歳のときに初めて曲を書いていただいて以来、60~70曲はいただいています。
僕が29歳から30歳のころ、歌手をやめようと思ったことがあり、夜中に突然、船村先生から自宅に電話がかかって来て、「歌手を辞めるって聞いたけど、本当か」「辞めるのは君の勝手だし、自由にすればいいけど、俺の大好きな『夕笛』はいったい誰が歌うんだ」といって、電話を切られました。その時、「男の仕事とは、歌手が歌を歌うということは、そういうことか」と思い、辞めるのを思いとどまりました。船村先生からの電話がなければ恐らく歌手を辞めていたと思います。一生の恩人です。
「巨星逝く」という古い言葉がありますが、まさにその想いです。先生が居て下さるだけで、流行歌の世界の重しとなっていました。
僕ら歌い手が、いただいた作品をそれぞれ歌っていくことが、供養でありご恩返しだと思います。
舟木さんの特番の日に飛び込んできた船村徹先生の訃報。
「夕笛」の話は、舟木さん復活に大きな意味を持った話です。舟木さんが言われる通り、先生の言葉がなければ、もう舟木一夫の名前は消えていたかもしれません。舟木さんが55周年を迎えられたのも船村先生のお蔭だったと言っても過言ではないでしょう。
昭和歌謡史の巨星が、また一つ消えた。
心から哀悼の意を表したいと思います。合掌